「人生の意味」の論文(わかる哲学)

今後の計画

2018年9月現在における、今後の計画をまとめておきたいと思います。

僕がこれから主にやっていきたいことは「哲学」と「音楽」です。
これは未だに変わっていません。

そこまではいいのですが、では具体的にこれらで何を目指しているのか。
「夢」のようなものを決めておいた方が不安にならずに生きていける気がします。
そこでまず、夢について整理しておこうと思います。

僕の夢は何か?

ひと昔前は「歴史上に名を残す偉大な哲学者になること」や「紅白歌合戦出場」を夢として掲げていました。
それらはとてもかっこいい夢で叶えたいという想いは今もあります。
ただ、これを最終目標とするのは何か違うように思い始めています。

「歴史上に名を残す偉大な哲学者になること」や「紅白歌合戦出場」という目的を設定すると、哲学や音楽をやることはそういった目的を達成するための手段となってしまいます。
ひとたび、その目的が達成されてしまえば、その手段すなわち哲学や音楽に対する手段としての価値がなくなってしまい、それらを手段としてやっていく意味がなくなります。

せっかく情熱を注げるものを見つけたのに、道具としてすり減らしてボロボロにしてしまうのはなんともったいないことでしょう。
だから、哲学や音楽を手段として位置づけるのはよくないと気づきました。

そこで、哲学や音楽を手段ではなく、そのまま目的にしてみようと考えました。
僕自身、哲学や音楽をただやっているだけでもかなり楽しいので、その幸せを目的として追求してみようと思います。
つまり、僕の今後の夢は「哲学と音楽を続けること」となります。

これならば、夢を叶えて夢がなくなり喪失感を覚えるということがありませんし、でも哲学と音楽を続けられれば夢は常に叶えられているということにもなります。
小さな夢「今、哲学と音楽をやること」を今この瞬間ごとに叶え続けていく形になります。

これ自体はある意味終わりのない、最も大きな夢でもありますが、最も小さく簡単な夢「今、哲学と音楽をやること」にも分割できるので、日々叶えている実感や幸福を得られることにもなります。
この目標を設定すれば、人生を楽しく生きていけそうなので、問題が生じるまではこれでいこうと思います。

すなわち、僕の今後の目標・目的・夢は「哲学と音楽を続けること」です。
この一般形が「<本当に好きなこと・情熱を注げるもの>を続けること」なので、もし僕の本当に好きなこと・情熱を注げるものが哲学や音楽から別のものに変わってしまったとしても、この公式に当てはめて残りの人生を強く生きていけるような気がします。

なお、この場合、最初に取り上げた夢、「歴史上に名を残す偉大な哲学者になること」や「紅白歌合戦出場」というのはもはや目的ではなく、手段となります。
とても贅沢な手段ではありますが、哲学や音楽を継続してやっていくための手段ということになります。
なぜなら、こういったことを達成することで、哲学や音楽を続けていくことがさらに有利になるからです。

どうやってお金を稼ぐか?

もちろん、哲学や音楽を続けていくことはそう簡単なことではありません。
短期間であれば簡単ですが、その期間が長くなるにつれ難しくなってきます。

当たり前ですが、僕らは何かを続けるためにはまず生き続けなければならず、生き続けるためには食べ続けなければならず、食べ続けるためにはお金を稼ぎ続けなければならないからです。
もちろん、自給自足の生活など例外的なものはありますが、現代社会の貨幣制度・分業制度に比べると自給自足は非効率的なので、ここでは食べるためにはお金を稼いで食べ物を買うことを考えます。

よって、何かを続けるにはお金を稼ぎ続ける必要があることになります。
ここで目の前の道が2つに分かれます。

  1. 哲学や音楽でお金を稼ぐ
  2. 哲学や音楽以外でお金を稼ぐ

1年前の僕は2番目の道を選び、1ヶ月ほど前までその道を進んできました。
理由は2つあって、

  1. 哲学や音楽で十分に稼ぐことはとても難しい
  2. 哲学や音楽がけがれる

と考えていたからでした。

哲学や音楽は数ある職業分野の中でも、安定した収入が保証されていなかったり、その確保が少なくとも最初のうちは難しい分野だと思います。

哲学に関しては大学教員という道もありますが、僕が目指す哲学が大学などで為される「アカデミックな哲学」ではなく「非アカデミックな哲学」であることと、そもそも雇われるということがあまり好きではないということから、フリーランスで稼いでいく必要があります。

音楽に関しても(詳しいことはまだよくわかっていませんが)、雇われるというのは制約が多く、自由に創作ができなくなるように思われるので、できたら避けたいと思っています。よって、音楽に関しても稼ぐとしたらフリーランスのような形になるかなと思います。

もしそうならば、哲学と音楽はフリーランスという形で稼いでいくことになるでしょう。
これが不可能とは言いませんが、少なくとも最初のうちは極めて難しいように思います。

そして2つ目の理由ですが、雇われでないとしても、お金を稼ぐ際に「売れる」ということを第一に考えて哲学や音楽の作品を作ることになるように思われます。
そうなってしまうと、本来自分が表現したいものとは多かれ少なかれ、ズレていってしまうように思われます。

もちろん、それらが偶然にも一致すればいいのですが、たいていの場合は売れるように作品を作る中でどこかを妥協しなければならないということが起きると思います。
そうなれば、それはもはや哲学や音楽をけがすことにほかならないと思うのです。

長い期間かけてやっと見つけた情熱の塊を商売の道具にすることですり減らして、消耗させていくことはとても残念な生き方にしか思えません。
それを続けてしまえば、いつしか哲学や音楽に対する情熱はなくなり、それらで商売することにうんざりし、しまいにはそれらを嫌いにさえなってしまうかもしれません。
せっかく見つけた本当に好きなことをみすみす失うことにもなりかねません。

本当に好きなものを見つけることは、そうたやすいことではないと思うので、それらへの愛は大事に守りたいと思っています。

 

簡単に言うとこのような理由で、1年ほど前に哲学や音楽以外でお金を稼ぐことに決めました。
また、哲学や音楽をやる時間を多く取りたいと思ったので、収入形態は「不労所得」がいいだろうと考え、半年ほどその構築にいそしみました。

ただ、結論から言うとそれはうまくいきませんでした。
いろいろ理由はあったと思いますが、半年ほどやってみてそのやり方ではうまくいかないと気づきました。

大切なことに気づいた

それでも当時はまだ、哲学や音楽以外で不労所得を作りたいという想いはあって、別の方法でやってみることにしました。
そのための情報収集をしている期間に、縁あって様々な人たちと会うことができました。

旧友との再会や、新たな出会いもありました。
いろいろな人たちとお話をする中で、僕はあることに気づき始めました。

「本当にやりたいことからやれ」

人生において、これ以上美しい生き方はないということを学んだような気がします。
心の奥底ではわかっていたつもりでしたが、全然行動に移せていなかった自分に気づかされました。

僕は1年ほど前まではこういう生き方をしてきました。
でも、いざ経済的に自立する段階になると、この生き方はどこかに行ってしまったように思います。

もはや、この生き方は僕の選択肢にはありませんでした。
無意識のうちに、「現実的」になっていたのだと思います。
常識という波に飲み込まれてしまっていました。

この言葉は頭で理解しているだけでは不十分で、実際に行動するときに初めて役に立ち、そしてそれが極めて役に立つ指針になることがじわりじわりとわかってきたのです。
綺麗事として軽くあしらうのではなく、真摯に重く受け止める価値のある生き方だとわかりました。

結局、これから何をしていくか?

僕は逃げていたんだと思います。

本当に好きなことを追いかけてみることもせず、お金がなくなることに対する恐怖や不安から逃げていただけでした。

「今は本当にやりたいことができていないけれど、それは本当にやりたいことをやるための準備期間だからいいんだ」
「本当にやりたいことを大事に想っているがゆえに、今は一時的に我慢して他のことをやっているんだ」
そういう考え方もありますし、僕も以前はそう思っていました。

短絡的にやりたいことからやってしまうよりも、綿密に計画を立てて、やりたいことを後で確実にできるように別のことでお金を稼ぐ。
こちらの方が堅実で、うまくいきそうな気がします。

でも実際は、逆なのではないかと思い始めました。

その具体的な考察は長くなるので、以下の2つの記事にまとめておきます。

好きなことで稼がない理由に大したものはない

まず、この記事では先ほどの「哲学や音楽でお金を稼がない2つの理由」に対する反論をしました。
これらの理由と向き合ってみて、これらは哲学や音楽で稼がない理由として大したものではないとわかりました。

本当にやりたいことは先にやるべきか、後にやるべきか?

続いて、こちらの記事では「本当にやりたいことは先にやるべきか、後にやるべきか?」ということについて考えました。
「人生はシンプルであるべき」という前提を置いて、本当にやりたいことは先にやるべきという結論に至りました。

以上のような理由から、本当にやりたいことがあるのなら、最初からそれだけをやって稼いでいくのが最も理想であるという結論に至りました。
もちろん、本当にやりたいことがあったとしてもそれで稼げる保証はありません。
でも、まずはそれをやってみて、それで稼いでいけるかを調べてみることは人生において十分取るべきリスクだと思います。

それでもし稼げるということがわかれば、またそれを続けていくことができますし、もしそれでは稼げないということがわかっても(どれくらいの期間をかけて判断するかはまた難しいですが)、そうやって好きなことをやり続けた期間というのはその後の人生で大きな財産となるのではないでしょうか。
もし好きなことで直接的に稼げないとわかっても、そうやってがんばる姿に勇気づけられて助けてくれる人がいるかもしれないし、また別のいい方法がその過程で見つかっているかもしれない。

だから僕は、本当にやりたいことがあるのなら、まずはそれからやってみるという生き方がベストではないかと思います。

よってまとめると、僕の場合ですが、これからは「哲学だけに集中して哲学で稼げるかを調べること」をやっていきたいと思います。
題して「哲学のアウトプットモラトリアム」です。

哲学のアウトプットモラトリアム

東大にいたときに、工学部を1年間自主留年(工学部の必修科目をまったく取らず自動的に留年)して哲学科を中心とした哲学の講義を他学部履修するという1年間を作りました。

当時、哲学をずっとやっていきたいと思っていましたが、これが一時的な興味なのかもしれないという一抹の不安があったので、少しでも確信を得るために哲学に没頭する期間を作り、哲学がある程度どういったものかということを知り、それに対して人生をかけて向き合っていけるのかを調べるという時間にしました。

結論を言えばこれによって、哲学を一生やっていきたいという想いを再確認し、哲学を生涯をかけてやっていく覚悟ができましたが、今思えばこれは「哲学のインプットモラトリアム」にすぎなかったと思います。

当時はその一年の集大成として最後に「人生の意味」というテーマで自主的に論文を書きました。
ちなみに、僕が哲学を始めたのも「人生の意味は何か」という問いに答えるためでした。
でも、それを一般公開することはしませんでしたし、それ以外は講義を受けたり、本を読んだりしただけだったので、結局のところ哲学のインプットをしただけでした。

インプットとアウトプットは違います。
インプットをしただけで、哲学を知ったつもりになって、それを一生やっていくと決めたのはとても浅はかでした。
哲学で稼ぐとなると、哲学のアウトプットをしなければなりません。

だから、僕は哲学のアウトプットをやってみて、それがどういうものか、それで稼げるか、それを一生続けられるかなどを調べる期間を別に設ける必要があると感じています。
そしてそれが「哲学のアウトプットモラトリアム」であり、これからやりたいことにほかなりません。

またこの期間を設定するのが難しいですが、とりあえず1年やってみてから問題があればまた考えようと思います。
つまり、1年というのがひとまず十分な期間に思われます。

まとめ

よって僕は、「哲学のアウトプットモラトリアム」をとりあえず1年間取り、自分は哲学で稼いでいけるかを調べていきたいと思います。

また、もちろん音楽も同様にアウトプットモラトリアムを設けて稼げるか検討したいと思っていますが、まずは哲学だけに集中してみようと思います。
哲学の気分転換として、ときどき音楽をやってしまうかもしれませんが。

そして、こちらのブログは哲学と並行して続けていこうと思います。
記事として書き出したいことは山ほどありますし、これもいい気分転換になりそうなので。

この記事が「これからのこと」を扱っているので、これからは「これまでのこと」を過去から順番に記事にしてふり返り、どのような人生を経て、この記事の自分に至ったかをフラッシュバックのようにして補完していきたいと思います。

ということで今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。