この記事ではやる気には二面性があるということを考察していきます。
もしかしたら、やる気に対する理解が深まったり、やる気を出したいときに役に立つかもしれません。
はじめに
以前、僕はこのようなツイートをしました。
僕がやる気があって行動できているときは大体「〜になりたくない」という恐怖心で動いているなと思った。
勉強だと「テストで悪い点取りたくない」という恐怖心から必死に勉強していい結果を残せてきた。
目標を達成したり燃え尽きた後、やる気がなくなるのは、そういう恐怖心がなくなるからなのだろう— 伊藤翔太@フリーランス哲学者 (@itoshota93) 2019年1月11日
僕がやる気があって行動できているときは大体「〜になりたくない」という恐怖心で動いているなと思った。
勉強だと「テストで悪い点取りたくない」という恐怖心から必死に勉強していい結果を残せてきた。
目標を達成したり燃え尽きた後、やる気がなくなるのは、そういう恐怖心がなくなるからなのだろう
今回はこの内容を掘り下げてみたいと思います。
最初に断わっておきますが、ここでは厳密な哲学はしません。
僕の中での区別はまだまだ曖昧なところがありますが、これには純粋な哲学ではなく、考えたことや考察といった言葉を当てたい気がします。
参考までに僕の中での哲学の定義は極めて簡単に言うと「概念の再定義の過程」なので、概念の再定義の過程やその結果としての最終的な概念の定義がなければ僕にとっては哲学ではないのです。
そう考えると、今回の内容は自分的にデータも少なく、じっくり時間を取って向き合うこともできなそうなので、軽く考えたことを述べるにとどめます。
また改めていつか、時間をしっかりと取って、「やる気」という概念と向き合って哲学したいと思います。
というわけで、今回は試験的に軽めの考察とします。
僕は恐怖心に動かされることが多い
まずはツイートの内容を解説します。
最近思うようになったのですが、やる気が出ていて、僕が何かに熱心に取り組むことができているときは、「〜になりたくない」という否定的な欲求や恐怖に動かされていることが多い気がします。
もちろん、「〜したい」「〜になりたい」という肯定的な欲求に突き動かされることもあるのですが、恐怖に動かされることの方が多くて強い気がしています。
僕が唯一誇れることは独学でも勉強の成績がよかったことくらいですが、勉強をしていたときはそういった恐怖心に動かされていたように思います。
小学生まではゲームやサッカーをしたり、友達と遊んでばかりいてそこまで勉強をしていなかった僕ですが、中学に入ってからそれが一転しました。
中学に入ってから、なぜかテストや試験といったものがめちゃくちゃ怖くなりました。
「悪い点を取りたくない」
なぜかそういう恐怖心が芽生えました。
そんな一心でコツコツ勉強した結果、中学に入って初めての中間テストの5教科合計点で、学年1位を取りました。
正直びっくりしました。
これが僕の人生の中でもかなり衝撃的なできごとだったと思います。
特にそれまでスポーツで大活躍できるわけでもなく、何か特別な習い事をしていたわけでもないし、特技もない。
そんな僕でも勉強だったらできるかもしれない。
そう思わせてくれた結果でした。
なぜか震えが止まらなかったけど、とても嬉しかったです。
そしてその後は「また1位を取りたい」という気持ちよりも、「1位じゃなかったら嫌だな」とか「悪い点は取りたくない」という恐怖心が僕をまた勉強に向かわせていたんだと思います。
いつも漠然とした恐怖があって、それから逃れるように勉強をしていたように思います。
その甲斐あって結局、中学では半分以上のテストで学年1位を取れていたように思います。
1位ではないときも2位か3位にはとどまっていたと思います。
当時はソフトテニス部に所属しており、放課後は練習、土日も練習や大会などと部活動にも真面目に参加していたので、その割にここまで成績をキープできていたのは我ながらよくやっていたなと思います。
しかも塾にも行かず、すべて独学で。
その後も、高専に進学して1回を除いてすべての試験で学科1位をキープしたり、東大の編入試験に合格したりと、自分は勉強することに向いているかもしれないと思う場面がいくつもありました。
このような場面でも、やはり恐怖心から勉強をしていたことを覚えています。
このように、僕が唯一、他の人よりも向いている、よくできると思われる「独学でテストで高得点を取ること」はほとんどが恐怖心によって成し遂げられていたんだと気づきました。
よって、経験則的に、僕の場合は肯定的な欲求よりも否定的な恐怖の方がやる気を引き出してくれることが多くて、その力が強いとわかりました。
さらなる考察
とまあ、ここまでは「僕は恐怖心にあおられると強いやる気が出て割と成果を残せてきた」という話でした。
これがあのツイートで言いたかったことです。
ですが、ここまで考えてきて、あることに気づいたのでそれも書いておこうと思います。
当たり前と言えば当たり前ですが、「悪い点を取りたくない」という欲求は「いい点を取りたい」という欲求と意味は同じで、目指すものも「悪い点を取らないこと=いい点を取ること」と同じであると言うことができます。
つまり、「悪い点を取りたくない」と「いい点を取りたい」は基本的に意味が同じなので、お互いに言い換えても文章の意味は基本的に変わりません。
ただ、意味は同じでも、やはり当人の感じ方は異なっていて、時と場合によって強く感じられるほうと弱く感じられるほうが存在するように思います。
僕の場合、「いい点を取りたい」よりも「悪い点を取りたくない」という欲求が強く感じられていました。
この状況を整理して、うまく理解するには「やる気には二面性がある」と考えると都合がいいように思われます。
やる気の二面性
やる気には二面性があって、それは「肯定的なやる気」と「否定的なやる気」であるとします。
肯定的なやる気は「〜したい」「〜になりたい」という直接的な欲求で、「希望」と言ってもいいかもしれません。
否定的なやる気は「〜したくない」「〜になりたくない」という「ない」がつく欲求で、「恐怖」と表現してもよいでしょう(僕は「恐怖心」と言うこともあります)。
そして、肯定的なやる気と否定的なやる気は表裏一体の関係で、「Aをしたい」と「Aでないことはしたくない」が常にセットになっています。
例えば「いい点を取りたい」と「悪い点を取りたくない」というセットです(この場合、A=いい点を取ること、Aでないこと=いい点を取らないこと=悪い点を取ること)。
これらは意味は同じですが、与える印象は異なることが多いです。
よって、認識される度合いも異なってくるということが考えられます。
安易に数値化できるものではありませんが、わかりやすくするため、しいて言えば、例えば「『いい点を取りたい』という欲求に対して否定的に70%、肯定的に30%の割合でやる気を感じている」とでもいうような感覚があります。
割合で語るのが不適当かもしれないですし、そもそも数値化できるものではないとも思いますが、感覚として、認識の度合いを比較して「どちらが大きい」といったことを言えるような気がしています。
例えば僕の場合は、「次のテストでいい点を取りたい」という風に考えるより、「次のテストで悪い点を取りたくない」と思った方がより多く勉強できる気がします。
追いかけるよりも追いかけられた方が速く走れるという感じです。
やはり恐怖から逃げる力は強いのかなと思います。
いずれにせよ、やる気には二面性があり、その内訳である肯定的なやる気と否定的なやる気は、意味は同じでも印象や認識の度合いは異なる場合がある、と言えるでしょう。
そのため、「〜したい」と「〜したくない」という欲求が存在し、僕の場合は「〜になりたくない」「〜したくない」という否定的なやる気や恐怖心といったものがより強く感じられることが多かったのでしょう。
また、そう考えると、おそらく僕の場合とは逆で、「〜したい」「〜になりたい」という肯定的なやる気や希望でより強く動かされる人もいるのだと思います。
これらを踏まえると、やる気が出なくて困っているときは、肯定を否定にしてみたり、否定を肯定にしてみることでやる気が出ることがあるかもしれません。
まとめ
いろいろと書いてしまいましたが、今回気づいたこと、考えたことをまとめます。
- 僕は否定的なやる気・恐怖心に動かされるときがより熱心に物事に取り組めて成果を出せていた
- 「やる気には二面性があり、それらは意味は同じでも感じられ方が異なる場合がある」と考えると都合がいいと僕は思う
賛否分かれるとは思いますが、この考え方が誰かの役に立てば幸いです。
読みました。結構長かったですが、あなたがソフトテニス部だったことをはじめて知りました。www
ありがとうございます。僕は長い文章を書く天才なのでw ちゃっかりソフトテニス部でしたw